アザミ
深い思いを
綿毛の種にのせて
アザミは、草食動物から身を護るため葉に鋭いトゲがあります。
そして綿毛状の種を風に乗せて飛ばします。この2つの特徴が裴奉奇さんを表す重要なポイントだと考えました。
潔癖症で、取材者など周囲から身を守るようにひっそりと暮らしていた裴奉奇さん。
日本軍「慰安婦」にされたことで心に刻まれた傷、その傷を掘り返そうとする人々に対する拒絶感として現れる裴さんの痛みを、
アザミの葉の鋭いトゲが象徴しています。
そして、母国でも放浪し、戦後の沖縄でも「落ち着かん、落ち着かんのよ」と焼跡にできた町々をさまよい歩いた姿は、
まるで風に飛ばされ根を下ろせる場所を探し求めるアザミの種のようです。
また、種にはもう一つの意味を込めました。実は裴さんも、決して殻に閉じこもり続けていたわけではなく、
身近な理解者と交流する中で、自らの尊厳を回復する過程を歩み、日本政府の責任を問う声を上げていたのです。
90年代に始まる解決運動に先駆けて、日本軍「慰安婦」問題の解決を求める声を挙げた裴奉奇さんの遺志が、
金学順さんたちへの闘いへとバトンタッチされたことは、まさに裴さんの存在が解決運動の種になったことを示しています。
マリーモンドジャパンでは朝鮮半島から沖縄に連れて来られて、
日本軍「慰安婦」被害に遭った裴奉奇さんに相応しい花としてアザミを選定しました。
裴奉奇さんの死から32年目の10月に、心からの尊敬と哀悼の気持ちを込めて、アザミを裴奉奇さんに献呈します。
裴奉奇ハルモニ
裴奉奇さんは1914年9月に日本の植民地支配下の朝鮮・忠清南道(チュンチョンナムド)新礼院(シンレウォン)で生まれました。
極貧の生活を送っていた裴さんは、数え7歳の時に他家にミンミョヌリ(将来その家の息子の結婚相手にするために、
幼い時に連れて来て育てる少女)に出されました。出された家の主人に気に入られずに父の元に戻され、
それを何度か繰り返す生活を送った裴さんでしたが、17歳のときに結婚しました。しかし結婚生活はうまくいかず、
朝鮮各地や満州をさまよいながら暮らしました。裴奉奇さんは20代のころの生活について「あっち転々、こっち転々」と言うだけで、ほとんど明かしていません。
29歳になった1943年、「仕事せんでも金が儲かるところがある」「木の下で口を開けて寝ていたら、バナナが落ちて口に入る」
という見知らぬ男の言葉に欺され、釜山から船に乗って沖縄・渡嘉敷島の「慰安所」に連れて来られました。
1944年11月から1945年3月末まで、「赤瓦の家」と呼ばれた「慰安所」で「慰安婦」としての生活を送りました。
そして1945年3月23日、米軍の大規模な空襲に遭った日から、裴奉奇さんは戦争のまっただ中を生きることになりました。
日本の敗戦後は、沖縄に動員された朝鮮人の多くが故国・朝鮮に戻りましたが、同胞の集団から外れ、
朝鮮への帰還船の出発日も知らなかった裴奉奇さんはひたすら沖縄の地をさすらい続けました。
当時の心境を裴奉奇さんは次のように語っています。
「一番はじめは、もうどこへ行っても落ち着かんさね。あっちへ行って一晩、こっちへ行って三晩、よくおったのが一週間。
もう歩き通しさね。……はじめはどこか行って「女中に使ってくれんか」って行ったら、
まだ若いから「どうぞ」と言って入れるさね。
「女中はいるから上でサービスしなさい」って言うさ。もう一日中歩きどおしだから、
「客場」におって居眠りした時もたくさんあったよ。
お客が酒飲んでるのに、その前で居眠りして夢まで見る。それで、一晩泊まって朝起きたら、またどこかへ行きたい。
昨日来て「使ってくれ」って入って、そこを出る時、「家へ行って着替えをとってくる」そんな嘘ついて出てくる。
一日中歩いて暗くなる。
暗くなっても寝るところがない。また飲み屋に行くのよ。小遣いは一銭もないさね。
2,3日おってバス賃ができたらまたよそへ行く。
着替えも何もない。風呂敷包み一つ頭にのせて、一か年はずーっと歩きどおしだった。どこに行っても落ち着かない。
落ち着かんのよ」(川田文子著『赤瓦の家』より)
1972年、沖縄は本土に復帰することになりました。
復帰前から法的な資格を一切持っていなかった裴奉奇さんは、沖縄の「返還」を機に法的な手続きをせざるを得なくなりました。
出入国管理事務所の事務官からどのように沖縄に来たのかを問われ、「慰安婦」として渡嘉敷島に連れてこられたことを明かしました。
ですから、裴奉奇さんは自ら名乗り出たのではなく、日本の出入国政策によってカミングアウトせざるをえない状況に追い込まれたと言えます。
こうした事情を1975年10月22日に高知新聞が記事にしたことで、裴奉奇さんの存在が世の中に知られることになりました。
そのため望まない外部からの取材要請が増え、少なからぬ苦痛を受けることになります。
それまで他者とはほとんど接触せず、人を避けて引きこもるようにして暮らしていた裴さんは、
突然の取材陣の来訪に対し、サトウキビを切るなたを振り回したり、追いかけたりしたこともあったと言います。
1991年10月18日、裴奉奇さんはひっそりと息を引きとりました。
裴奉奇さんが亡くなってちょうど49日目となる12月6日、裴奉奇さんの四十九日の追悼式がおこなわれたその日に、
金学順さんが東京地方裁判所に謝罪と賠償を求める訴訟を起こしました。
韓国で最初に名乗り出て、その後の各国被害者たちの名乗り出を促した金学順さんも、裴奉奇さんの存在を知って、
裴奉奇さんの追悼式に弔慰金を送っていました。
裴奉奇さんの四十九日の追悼式と金学順さんの提訴の日が重なったのは偶然ではありますが、
しかし、裴奉奇さんの思いが金学順さんの名乗り出につながり、その後の多くの被害者たちのたたかいに勇気を与えた、
そのことを象徴する出来事だったのではないかと思えてなりません。
MARYMOND
花ハルモニ・プロジェクト
より良い社会のために勇気を振り絞り人権運動家になった日本軍「慰安婦」被害者(ハルモニ)一人一人の人生と姿をクローズアップするヒューマン・ブランディング・プロジェクトです。
一人一人の人生に合う固有の花を献呈することで、ハルモニが私たちに語ってくれた正義と平和のメッセージ、そしてハルモニの人生が永遠に尊敬され記憶されることを願っています。